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幸若舞 敦盛

  • 2009年11月30日 12:00 AM
  • 記録

 そも/\、此たび平家一の谷の合戦に、御一門、侍大将、総じて以上十六人の組足のその中に、もののあはれを留めしは、相国の御弟経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて、もののあはれを留めたり。その日の御装束、いつにすぐれてはなやか也。梅の匂の肌寄の優なるに、唐紅を召され、練貫に色/\の糸をもつて、秋の野に草尽し縫ふたる直垂、弓手の手蓋、両面の脛当、紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差ひたる染羽の矢、村重籐の弓、連銭葦毛なる駒に、梨子地蒔白覆輪の鞍置かせ、御身軽げに召されたる御馬、鎧の毛に至るまで、げにゆゝしくぞ見えられける。御一門と同、主上の御供を召され、浜に下らせ給ひしが、御運の末の悲しさは、漢竹の横笛を大裡に忘れさせ給ひ、若上臈の悲しさは、捨てても御出であるならば、さまでの事のあるじきを、且うは、この笛を忘れたらんずる事を、一門の名折りと思し召し、取りに返らせ給ひて、かなたこなたの時刻に、はや御一門の御座船を、遥かの沖へ押し出す。あら、いたはしや、敦盛。塩屋の端を心掛け、駒に任せて落ちさせ給ふ。

 かゝりけるところに、武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、この度一の谷の先陣とは申せども、させる高名をきはめず、無念類はなかりけり。「あつぱれ、こゝもとを、良からん敵の通れかし。押し並べ、むずと組んで、分捕りせばや」と思ひ、渚に沿ふて下りしが、敦盛を見つけ申、斜めならずに喜ふで、駒の手綱うつ据ゑて、大音上げて申。「あれに落ちさせ給ふは、平家方にをきては、良き大将と見え申て候。かう申兵を、いかなる者と思し召す。武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、敵にをひては、良き敵候ぞ。まさなくも、敵の鎧の総角、逆板を見せ給ふものかな。引つ返し御勝負候へ。いかに/\」とて、追つかけ申。あら、いたはしや、敦盛。熊谷と聞し召し。逃れ難くは思し召されけれ共、駒に任せて落させ給ふ。

 かゝりけるところに、遥かの沖を御覧ずれば、御座船間近く浮かんであり。あの船を招き寄せ、乗らずものと思し召し、腰よりも、紅に日出したる扇抜き出で、はらりと開かせ給ひて、沖なる船を目にかけて、ひらり/\と招かるゝ。船中の人々に、人しもこそ多きに、門脇殿は、御覧じて、「母衣懸け武者の船招くは、左馬の頭行盛か、無官の太夫敦盛か。あれを見よ」との御諚なり。悪七兵衛承り、船梁につつ立ち上がり、長刀を杖につき、甲を脱いで、きつと見て、「いたはしの御事や。何として御座船に、召し遅れさせ給ひけん。経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて渡らせ給ひ候ぞや。召されたる御馬の毛、鎧の毛にいたる迄、まがふ所はましまさず。いたはしさよ」と申けり。門脇殿は、聞し召し、「敦盛ならば、この船を押し寄せて、助けよ」。水手、楫取、承り、臚櫂、舵を立て直し、船を渚へ寄せんとす。此ほど二三日吹きしほりたる北風の、名残の波は今日も立つ。風はきほおつて、波は強蛇のごとく也。白浪船世(元字は木篇)を洗ひ、砂子を天に上ぐれば、たゞ雪の山のごとくなり。小船こそ、自づから弓手へも馬手へも、思ふ様には扱はるれ、殊に勝れたる大船に、大勢は召されたり。畳む波に塞かれつゝ、次第/\に出づれ共、磯へ寄るべきやうはなし。

 敦盛、この由を御覧じて、「いや/\、この馬を泳がせて、あの船に乗らふずもの」と思し召し、駒の手綱かい繰つて、海上にうち出で、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。いたはしや、敦盛。老武者にてましまさば、三頭に乗り下がつて、時/\〃声を立て給はば、御馬は逸物なり、沖の御座船に難なく馬は着くべきに、若武者の悲しさは、馬に離れて叶はじと、思し召されける間、前嵩に乗り懸て、左右の鐙を強く踏み、手綱に縋り給ひて、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。馬逸物とは申せ共、畳む波に塞かれつゝ、泳ぎかねてぞ見えにける。

 熊谷、此由を見参らせ、「まさなの平家や。沖の御座船は、遥かにほどを隔てつゝ、しかも波風荒ふして、いかで叶はせ給ふべき。引つ返し御勝負あれ。さなき物ならば、中差を参らせん」と、弓と矢をうち番つて、そゞろ引てかゝりけり。敦盛、御覧じて、「なか/\錆矢に射当てられ、一門の名折り」と思召、駒の手綱引つ返して、遠浅になりしかば、水鞠ばつと蹴立て、染羽の鏑うち番ひ、かうこそ詠じ給ひけれ。

梓弓矢をさし矧げて引く時は返す事をば知るかぞも君

熊谷も、心ある弓取にて、「あつ」と思ひ、左右の鐙を蹴放つて、返歌と思しくて、かくばかり、

平題箭のはや外れんと思ひしにやと言ふ声に立ちぞ留まる

かやうに詠じて、待ち受け申。

 さる間、敦盛、弓と矢をがらりと捨て、御佩刀ひん抜いて、「受けて見よ」とて、打たれたり。熊谷さらりと受け流し、取て直してちやうど打つ。二打ち三打ち、ちやう/\ど打合せけれども、いづれも勝負見えざれば、「寄れ、組まん」「尤」とて、互ひに打物がらりと捨て、鎧の袖を引つ違へ、むずと組んで、二人が、両馬の間にとうど落つる。あら、いたはしや、敦盛。御心は猛く勇ませ給へども、老武者の熊谷にて、物の数とはせざりけり。易/\と取て押さへ申。甲ちぎりてがらりと捨て、腰の刀ひん抜いて首を取らんとしたりしが、あまり手弱く思ひ、さしうつぶひて相好を見奉るに、薄化粧の鉄漿黒く、眉太う掃かせ、さもやごとなき殿上人の、年齢ならば十四五かと見えさせ給ふ。熊谷、あまりのいたはしさに、少しくうつろげ申。「上臈は、平家方にをひては、いかなる御公達にてましますぞ。御名字を御名乗り候へ」。あら、いたはしや、敦盛。老武者の熊谷に、組み敷かれさせ給ひ、よに苦しげなる息をつき、「げにや、熊谷は、文武二道の名人とこそ聞きつるに、何とて合戦に、法なき事をば申ぞ。我らは天下の朝臣とし、雲客の座敷に連なつて、詩歌管弦の道に長じたりし身なりしか共、この二三ヶ年は、一門の運尽き、帝都をあこがれ出しよりこの方、武士の勇める法をば、あら/\聞て候。それ、人の名乗といふは、互ひの陣に群がつて、軍乱れの折から、矢なき箙を腰に付け、鍔無き太刀を抜き持つて、これはしんぢやうその国の、何某、誰某と名乗て、打物の勝負をし、又組んで勝負を決するとこそ聞きつるに、我は敵に押へられ、下より名乗法とは、今こそ聞て候へ。あふ、心得たり、熊谷。名字を名乗らせ首を取つて、汝が主の義経に見せんためな。よし/\、それ、世には隠れもあるまじきぞ。たゞ某が首を取て、汝が主の義経に見せよ。見知る事もあるべし。それが見知らぬ物ならば、蒲の冠者に見せて問へ。蒲の冠者が見知らずは、この度平家の生捕りの、いかほど多くあるべきに、引向けて見せて問へ。それが見知らぬものならば、名もなき者の首ぞと思ひて、叢に捨てての後は用もなし、熊谷」とこそ仰けれ。熊谷承て、「扨は上臈は、武士の勇める法をば、詳しくは知ろし召されぬや。世にもの憂きは、我らにて候。君の御意に従つて、身を助けんとすれば、親と争ひ子と戦ひ、はからざる罪をのみ作るは、武士の習ひなり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、清風朗月飛花落葉の戯れ、尚今生ならぬ機縁と承る。この度の合戦に人しもこそ多きに、熊谷が参り合ふ事を、前世の事と思し召し、御名乗候へ。御首を給て、たゞ奉公の其忠に、後世を弔ひ申べし」。敦盛は、聞召、「名乗らじものとは思へ共、後世を問はんず嬉しさに、さらば、名乗て聞かすべし。我をば誰とか思ふらん。門脇の経盛の三男に、未だ無官は仮名にて、大夫敦盛。生年は十六歳。軍は、是が始めなり。さのみに物な尋ねそよ。はや首取れや、熊谷よ」。

 熊谷、承つて、「さては、上臈は、桓武の御末にて御座ありけるや。何、御年は十六歳。某が嫡子の小次郎も、生年十六歳に罷りなる。扨は、御同年に参候ひけるや。かほどなき小次郎、眉目悪く色黒く、情も知らぬ東夷と思へ共、我子と思へば不便也。あら無残や、直家、直実もろともに、今朝一の谷の大手にて、敵まれいの三郎が放つ矢を、直家が弓手の腕に受け留め、某に向かつて、「矢抜いてたべ」と申せしを、「痛手か、薄手か」と問ばやと思ひしが、いや/\、熊谷ほどの弓取が、敵味方の目の前にて、問ふべきかと思ひ、はつたと睨んで、「あら、言いに甲斐なの直家や。其手が大事ならば、そこにて腹を切れ。又薄手にてあるならば、敵と合ふて討死をせよ。味方の陣を枕とし、私の党の名ばし朽すな」と言ひてあれば、まことぞと思ひ、某が方を、たゞ一目見、敵の陣へ駆け入てよりその後、又二目とも見ざりしなり。さても熊谷が、つれなく命長らへ、武蔵の国に下り、直家が母に逢ひて、討たれたると言ふならば、眼路の母が嘆くべし。経盛とやらんも、花のやうなる若君を、渚に一人残し置き、さこそ嘆かせ給ふらん」。経盛の御愁嘆と、さて直実が思ひをば、物によく/\譬ふれば流水同じ水なれど、淵瀬の変るごとくなり。

 熊谷、あまりのいたはしさに、又さし俯ひて、御相好を見奉るに、嬋娟たる両鬢は、秋の蝉の羽にたぐへ、宛転たりし双蛾は、遠山の月に相同じ、業平の往古、交野の野辺の狩衣、袖打ち払ふ雪の下、翠黛紅顔錦繍の粧ひを、たとへば絵には写すとも、此上臈の御姿を、筆にもいかで尽すべき、熊谷、心に按じけるは、「いや/\、この君の御首を給て、某、恩賞に与りたればとて、千年を保ち、さて万年の齢かや。末代の物語りに、助け申さばや」と思ひ、「なふ、いかに敦盛。平家方にて仰せらるべき事は、「武蔵の熊谷と申者と、波打ち際にて組みは組んで候へども、我が子の直家に思ひ替へ、助け申たり」と、御物語り候へ」と、取つて引つ立奉り、鎧に付たる塵うち払ひ、馬に抱き乗せ奉り、直実も共に馬に乗り、西を指ひて、五町ばかり行き過ぎ、後ろをきつと見てあれば、近江源氏の大将に、目賀田、馬淵、伊庭、三井、四目結の旗差させ、五百騎斗で追つ掛くる。弓手を見てあれば、成田、平山控へたり。馬手の脇には、土肥殿、七騎で追つ掛くる。上の山には九郎御曹司、白旗を差させ、御近習にとつては、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河、この人々を先として、声/\〃に申やう、「武蔵の熊谷は、敵と組んづるが、既に助くるは、二心と覚えたり。二心あるならば、熊谷ともに討ち取れ」と、我も/\と追つ掛くる。この君の有様、物によく/\たとふれば、籠の内の鳥とかや。網代の氷魚のごとくにて、漏りて出づべきやうはなし。「人手に掛け申さんより、直実が手に掛け、後世を某弔はばや」と思ひて、又むずと組んでとうど落、いたはしや、御首を、水もたまらず掻き落し、目より高く差し上、鬼のやうなる熊谷も、東西を知らで泣き居たり。

 熊谷、涙を留め、御死骸を、かなたこなたへ押し動かして、見奉れば、鎧の引き合せに、漢竹の横笛を、紫檀の家に篳篥を添へて差されたり。又馬手の脇を見てあれば、巻物一巻おはします。「是は何ならん」と、開いて拝見仕に、あら、いたはしや、敦盛の、都出の言の葉を、くれ/\〃とこそ遊ばしけれ。此君、都に御座の御時は、按察使の大納言資賢の卿の姫君、十三にならせ給ひしが、天下一の美人にてましますを、仁和寺御室の御所にて、月次の管弦の有し時、敦盛は笛の役、同じ楽工にて、琴弾き給ひし御姿を、一目見しより恋と成て、歌に詠み、文に書きこさる。その文、数の重なりて、逢瀬の仲となり給ふ。中三日と申に、平家帝都の花洛を去つて、西海の波濤に赴き給ふ。あら、いたはしや、敦盛。御身は一の谷に御座あると申せども、御心は、さながら都へのみぞ通はれける。思召出されし時に、作られけるかと覚しくて、四季のちやうをぞ書かれける。先づ青陽の朝には、垣根木伝ふ鶯の、野辺になまめく忍び音や。野径の霞あらはれて、外面の花もいかばかり。重ね桜に八重桜。九夏三伏の夏の天にも成ぬれば、藤波いとふか、郭公。夜々の蚊遣り火下燃えて、忍ぶる恋の心す。黄菊紫蘭の秋にもなりぬれば、尾上の鹿、立田の紅葉、枕にすだく蟋蟀、聞かでや、萩の咲きぬらん。玄冬素雪の冬の暮れにもなりぬれば、谷の小河も通ひ路も、みな白妙に、四方なると言へ共、消えて跡もなし。名残惜しき故郷の木々の木末を見捨てつゝ、今は又一の谷の苔路の下に埋もるゝ、経盛の末の子の、無官の太夫、敦盛」と、書き留めてぞ置かれける。かれを見、これを見奉るに、いとゞ涙も塞きあへず。御死骸をば郎等に預け置き、御首、笛、巻物、供に持たせ、大将の御前に参り、此由かくと申上ぐる。判官、御覧じて、「あら、不思議や。この笛は、某が見知るところの候。それをいかにと申に、一年、高倉の宮、御謀叛企ての時、天下に、小枝、蝉折とて、二管の笛あり。蝉折をば、三井寺にて、弥勒に回向し給へり。小枝をば、御最後迄持たせ給ふ由、承るが、水無瀬光明山にて、討たれさせ給ひし時、此笛、平家の手に渡る。一門の其中に、笛に器用を召されしに、弱冠なれども、敦盛は、笛に器用の人也とて、下されけると承る。今朝一の谷の内裏役所にて、笛の遠音の聞えしは、此人の吹きけるか」とて、大将涙を流させ給へば、知も知らぬもをしなべて、皆涙をぞ流しける。

 「敦盛は名大将、熊谷、いしくも仕たり。この度の勧賞には、武蔵の国長井の庄を取らするぞ。急ぎ罷り下れ」との御諚なり。熊谷が郎等ども、所知入せんと喜ぶところに、熊谷、その御返事に及ばず、涙の隙よりも、かくばかり、

人となり人とならばやと思ふさらずはつゐに墨染の袖

かやうに詠じ、御前を罷り立ち、「何として、敦盛の御死骸を、源氏雑兵の駒の蹄の通ふ処に、捨て置き申べきぞ。送り申てあればとて、よも罪科には行はれじ。いや/\、送り申さばや」と思ひ、塩屋の端に下り、小船一艘拵へ、雑色二人、侍一人相添へ、状を書きしたゝめ、八島の磯へぞ送られける。

 平家は、元暦元年二月七日に一の谷を落ち、浦伝ひして、十三日の早朝に、八島の磯に着く。熊谷が送りの船も、同じ日、八島の磯に着く。敵味方の事なれば、其間はるかに臚櫂を留め、大音上げて申。「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひに罷り向かつて候。門脇殿の御内なる、伊賀の平内左衛門の尉殿へ、申たき子細の候」と、高らかに呼ばはる。あら、いたはしや、平家は、一の谷を落ち、海路遥かに落延びたれば、左右なふ源氏の勢の、かゝるべしとも、思し召されず、只此程の朦気には、波枕、楫枕、夢驚かす松の風、命も知らぬ松浦船、こがれて物や思ふらん。心細く思せしに、「源氏の船よ」と聞召、我先に/\と、臚櫂を速め、落ち行けども、東国の源氏に会はんと言へる平家なし。

 大臣殿、御覧じて、「不覚なり、方/\〃。世は澆季に及て、時末法に帰すといふ。例へば、異国の樊膾(元字は口篇)が渡て乗つたりとも、あれほどの小船に、何ほどの事のあるべきぞ。誰かある。行き向かつて、聞て参れ」とありし時、平内左衛門承て、「存ずる道候。聞て参り候はん」と、屋形の内へつつと入て、出で立つ。その日の装束は、はなやかにこそ見えにけれ。肌には白き帷子皆白折て引違へ、褐の鎧直垂の、四の括り緒ゆる/\と寄せさせ、楊梅桃李の左右の小手、白檀磨きの脛当に、獅子に牡丹の脛楯し、糸緋縅の鎧の、巳の時と輝くを、綿噛取つて引つ立て、草摺長にざつくと着、結つて上帯ちやうど締め、九寸五分の鎧通しを、馬手の脇に差いたりけり。一尺八寸の打刀、十文字に差すまゝに、三尺八寸候ひける赤胴作りの太刀佩ひて、梨子打烏帽子に鉢巻し、白柄の長刀を杖につき、我に劣らぬ郎等どもを、七八人相具し、端舟下ろし、打ち乗り、面に楯を蔀ませ、ざゝめかひて押し寄する。樊膾が勢ひも、あふ、かくやと、思ひ知られてあり。

 「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひとは、そも、何事の子細ぞや」。送りの者申。「さん候。敦盛を熊谷が手にかけ申、あまり御いたはしきによつて、御死骸に色/\の武具共、又は進状を相添へ、是迄送り申て候。急ぎ御座船に召され、阿波の鳴門にまします由を承て候が、やはか討たれさせ給ふべき。もし偽りにてや候らん」。送りの者申。「御不審は理誠偽りをば、たゞ船中を御覧ぜよ」と申。基国聞て、「げに/\、これは言はれたり」とて、送りの船に、我が船を押し寄せ、長刀を杖につき、送りの船をさし俯ひて見て有ければ、げにと色/\の縫物したる直垂に、敦盛の御死骸と覚しきを、押し包みてぞ置きにける。紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差いたる染羽の矢。村重籐の弓もあり。粉ふところはましまさず。基国、余りの悲しさに、長刀をがらりと捨て、送りの船に乗り移り、御死骸に抱き付き、泣け共さらに涙なし。叫べども声は出でざりけり。やゝありて、基国は、涙を流し、申やう、「いたはしや、この君の、一の谷を御出での時、この着背長を奉る。おとなしやかに、敦盛の、「いつしか御一門、世が世にまし/\て、四海に風の治まりつゝ、基国に所知領らせみるとだに思ひなば、いかばかり嬉しかるべき」と、仰られし其時は、基国が嬉しさを、何にたとへん方もなし。誠の時には動転し、召されざる敦盛を、一門の御船に召されつゝ、阿波の鳴門にましますと申たる、基国が心の中の不覚さよ。今一度基国かと、仰せ出され候へ」とて、消え入るやうに泣きければ、送りの者も、供人も、「げに理や、道理」とて、みな涙をぞ流しける。

 送りの者申。「是は御使ひの身にて候。急ぎ御座船に御移しあれ」と申。基国聞て、「げに/\思ひに忘じ、思ひ忘れて候」とて、敦盛の御死骸を、我船に移し、大船に漕ぎ寄せ、「この由かく」と申上ぐる。

 門脇殿も、経盛も、「何、敦盛が、討たれたると言ふか」「さん候」と申。「あら、不思議や。敦盛は、一門の船に乗り、阿波の鳴門にある由を、風の便りに聞しほどは、いかばかり嬉しかりつるに、熊谷が手に掛り、さては討たれてありけるか」と、涙ながらに出で給ふ。女房達にとりては、女院を始め奉り、宗徒の女官百六十人も、袴の稜を取り、皆船端に立ち出でて、御死骸に抱き付き、「是は、夢かや、現か」と、一度にわつと叫ばれしを、物によく/\たとふれば、これやこの、釈尊の御入滅の如月や、十大御弟子、十六羅漢、五十二類に至るまで、別れの道の御嘆き、かくやと思ひ知られたり。

 やゝ有て、父経盛は、落つる涙の隙よりも、「あら無残や、敦盛。一の谷を出し時、故郷の方を見送り、心細げにて立たりしを、いさめばやと思ひ、「あら、不覚なりとよ、敦盛よ。三代槐門の家を離れ、屍を野山に埋み、名を万天の雲居に挙ぐべき身が、郎等の見る目をも恥よかし」と言ふてあれば、さらぬ体にて、渚まで下りしが、「笛を忘れて候」とて、取りに帰りし其時、共に帰らんと思ひつれども、敵味方に押し隔てられ、又二目とも見ざりしなり。情ある熊谷にて、形見これまで送りたり。空しき死骸、この形見、今日は見つ。明日より後の恋しさを、誰に語りて慰まん。なふ、人々」との給ひつゝ、悶へ焦がれ給ひけり。平家方の人々は、今一人の涙なり。

 其後、熊谷が送たる状を召し出し、「大将なれば、此状を、もし義経ばし送りてあるか」。使ひは是非を弁へず、たゞ、「門脇殿へ」とばかり申。とても伊賀の平内左衛門へと書たる状にてある間、「家長、文を仕れ」「承り候」とて、船の船世(元字は木篇)に跪き、状を賜り、差し上げ、高らかにこそ読ふだりけれ。

直実謹言。不慮に此君と参会し奉し間、直に勝負を決せんと欲する刻、俄に怨敵の思ひを忘じ、却而武芸の勇み消え、剰は守護を加へ奉る処に、多勢一同に競い懸て、東西にこれは居る。かれは多勢、是は無勢。樊膾却而張良が芸を慎む。たま/\直実は、生を弓馬の家に生れ、巧を洛城に廻らし、命を同す。陣頭が夕、瀬ゞ万/\に及で、自他かくの面目を施せり。さても、此度、悲しきかなや、此君と直実、深く逆縁を結び奉るところ、嘆かしきかな、拙きかな。この悪縁を翻すものならば、永く生死の絆を離れ、一つ蓮の縁とならんや。閑居の地所をしめしつゝ、御菩提を懇ろに弔ひ申べき事、誠偽り、後聞隠れなく候。この趣をもつて、御一門の御中へ、御披露あるべく候。よつて恐惶謹言。元暦元年二月七日。武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実。

進上。門脇殿の御内なる伊賀の平内左衛門殿へ。

と読ふだりけり。御一門雲客卿相、同音に「あつ」と感じ給ひ、「げにや、熊谷は、遠国にては、阿傍羅刹、夷なんどと伝へしが、情は深かりけるぞや。文章の達者さよ。筆勢のいつくしさよ。かほど優しき兵に、返状なくて叶はじ」と、大臣殿返状を、経盛の自筆に遊ばして賜ぶ。

 使ひは文を給はり、急ぎ一の谷に漕ぎ戻り、熊谷殿に見せ奉る。熊谷、「いかんとして、弓矢の冥加無くしては、経盛の御自筆を拝み申さん」と、三度戴き、開いて拝見仕る。その御書に曰く、

敦盛が死骸、並びに遺物給はり訖。此度、花洛を打立しより此方、なんぞ二度思ひ返す事のあらんや。盛んなる者の衰ふるは。無常の習ひ。会へる者に別るゝ事、穢土の習ひ。釈尊、羅候(元字は目篇)羅(らごら)、天の一子の別れにあらずや。いはんや凡夫をや。去ぬる七日に打立しより以来、燕来たつて語らへど、其姿を見ず。帰雁翼を連ね、空に訪れ通るといへど、その声を聞かず。されば、彼遺跡の聞かまほしきによつて、天に仰ぎ地に伏し、これを祈る。神明の納受、仏陀の感応を待つところによつて、七日が内にこれを見る。内には信心をいたし、外には感涙袖を浸すによつて、生れ来たれるに会へり。喜悦の芳意なくしては、いかゞその姿を二度見ん。すみ、すこぶる須弥の頂低うして、蒼海却而浅し。進んで是を報ぜんとすれば、過去遠/\たり。退き応へんとすれば、未来永/\たる物か。万端多しと言へど、筆紙に尽しがたし。是は武蔵の熊谷の返し状。

とぞ、読ふだりける。

 去程に、熊谷、よく/\見てあれば、菩提の心ぞ起りける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首を見れば、もの憂さに、獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙となし申。御骨ををつ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を添へし白真弓、今は何にかせんとて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出でて、東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房と申。花の袂を墨染の、十市の里の墨衣、今きて見るぞ由なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はれず。

 かくて蓮生、黒谷に籠居し、正念念仏申てゐたりしが、ある時、蓮生、心の内に思ふやう、「紀の国に御立ある高野山へ参らばや」と思ひ。上人に御暇申、頭陀の縁笈肩に掛け、頼む物は竹の杖、黒谷を、まだ夜を籠めて出でけるが、都出での名所に、東を眺むれば、誓願寺、今熊野、清水、八坂、長楽寺。彼清水と申は、嵯峨の帝の御願所、すみともの造立、田村丸の御建立、大同二年に建てられ、万の仏の願よりも、千手の誓ひは頼もしや。「敦盛の聖霊頓証菩提」と回向して、西を眺むれば、丹波に老の山、下り口に谷の堂、峰の堂。北を帰て見送れば、内野を出でて蓮台野、舟岡山の墓じるし、見るに涙も塞きあへず。南を眺むれば、東寺、西寺、四塚、年はゆけども老もせぬ、六田川原とうち眺め、山崎、宝寺、関戸の院をうち過ぎ、八幡の山を下向して、惟喬の親王の御狩せし、交野の原を通り、禁野の雉子は子を思ふ。鵜ど野に茂き籬垣の、宿を過れば糸田の原、窪津の王子を伏し拝み、天王寺へぞ参りける。天王寺と申は、聖徳太子の御願なり。七不思議の有様、劫は経るとも尽きすまじ。亀井の水の流れ絶えぬぞ尊かりけると、伏し拝み候ひて、天野に参らるゝ。大明神と申は、高野の鎮守でおはします。「御山に法師を授けてたばせ給へ」と、懇ろに祈誓申て、はや高野山へ参らるゝ。忝くも高野山と申は、帝城を去つて二百里、郷里を離れ無人声、八葉の峰、八つの谷、峨ゝとして岸高し。青嵐梢を鳴らせど、夕日の影のどか也。

 相賀の寺より、御影堂の谷、胎蔵界の大日、百八十尊を表せり。金堂の本尊は、阿■(あしゅく)、宝生、弥陀、釈迦、これ又大師の御作なり。大塔と申は、南天の鉄塔を学んで、兜率天のばんりを象り、十六丈の宝塔、上は千体の阿弥陀、中は千手の二十八部衆、下は薬師の十二神。生/\〃世々に際なく、衆生悪所の罪消え、来迎の三尊を拝むぞ尊かりけると、伏し拝み候て、奥の院へぞ参りける。道の辺りの白骨は、砂子を撒くがごとく也。いよ/\念仏申、奥の院へ参り、敦盛の御骨を籠め置き、蓮華谷の傍らに、知識院と申庵室を結び、峰の花を手折り、閼伽の水を掬び、行ひすまし、蓮生八十三と申に、大往生を遂げにけり。悪に強ければ、善にも強し。文武二道の名人、漢家は知らず、本朝に、かゝる兵あらじと、感ぜぬ人はなかりけり。

(岩波書店刊『舞の本』新日本古典文学大系59を底本としました。)

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